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41番 駿府城(静岡県) [日本100名城めぐり]
室町時代、今川範国が駿河国の守護に任ぜられると、その中心部に館を構え、領国支配の本拠地にしました。
戦国時代には、今川氏9代目の義元の代に、隣国三河(今の愛知県)から松平竹千代が人質としてやってきます。
竹千代はこの地で元服し、元信、後に元康と名を改めます。
義元が桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られると、元康は独立を宣言して領国に帰りました。
また、この機に乗じ甲斐国(今の山梨県)の武田信玄が攻め込んできて、今川氏は滅亡しました。
こうして駿河国は武田氏の領国となり、今川氏の館は武田氏の駿河支配の拠点となりました。
しかし、信玄が病死すると武田氏の力も弱まり、徳川家康と名を変えた元康は信長と手を組んで武田氏を滅亡させました。
これにより、武田氏の領地は徳川氏のものとなったので、家康は今川氏の館のあったところに駿府城を築きました。
やがて信長が本能寺で死に、跡を継いだ豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼして天下を統一すると、家康は関東に移封となってしまい、駿府城の城主は秀吉の家臣・中村一氏になりました。
秀吉も死に、その後勃発した関ヶ原の戦いで勝利した家康は、征夷大将軍となり江戸幕府を開きました。
そして、将軍職を息子・秀忠に譲った家康は再び駿府に舞い戻って隠居しますが、このときに駿府城は大規模な改築を受けました。
この時期に、家康が手植えしたと言われるミカンの木が残っています。

家康の後は息子の頼宣、次いで孫の忠長が城主を務めますが、忠長は兄である3代将軍・家光との確執の末自害に追い込まれ、その後駿府藩は幕府直轄領となり、駿府城には城代が置かれるようになります。
駿府城には大きな天守があったのですが、寛永年間に焼け落ちてしまい、その後再建はされませんでした。
また、明治時代になって歩兵第34連隊が駐屯することになると、天守台を含めすべての施設が取り壊されてしまいました。
今は天守のあったところに案内板だけが立っています。

昭和時代になると城の敷地は駿府公園として整備されるようになり、平成元年には巽櫓が、平成8年には東御門が再建されました。

この東御門の券売所に100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り65城
戦国時代には、今川氏9代目の義元の代に、隣国三河(今の愛知県)から松平竹千代が人質としてやってきます。
竹千代はこの地で元服し、元信、後に元康と名を改めます。
義元が桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られると、元康は独立を宣言して領国に帰りました。
また、この機に乗じ甲斐国(今の山梨県)の武田信玄が攻め込んできて、今川氏は滅亡しました。
こうして駿河国は武田氏の領国となり、今川氏の館は武田氏の駿河支配の拠点となりました。
しかし、信玄が病死すると武田氏の力も弱まり、徳川家康と名を変えた元康は信長と手を組んで武田氏を滅亡させました。
これにより、武田氏の領地は徳川氏のものとなったので、家康は今川氏の館のあったところに駿府城を築きました。
やがて信長が本能寺で死に、跡を継いだ豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼして天下を統一すると、家康は関東に移封となってしまい、駿府城の城主は秀吉の家臣・中村一氏になりました。
秀吉も死に、その後勃発した関ヶ原の戦いで勝利した家康は、征夷大将軍となり江戸幕府を開きました。
そして、将軍職を息子・秀忠に譲った家康は再び駿府に舞い戻って隠居しますが、このときに駿府城は大規模な改築を受けました。
この時期に、家康が手植えしたと言われるミカンの木が残っています。

家康の後は息子の頼宣、次いで孫の忠長が城主を務めますが、忠長は兄である3代将軍・家光との確執の末自害に追い込まれ、その後駿府藩は幕府直轄領となり、駿府城には城代が置かれるようになります。
駿府城には大きな天守があったのですが、寛永年間に焼け落ちてしまい、その後再建はされませんでした。
また、明治時代になって歩兵第34連隊が駐屯することになると、天守台を含めすべての施設が取り壊されてしまいました。
今は天守のあったところに案内板だけが立っています。

昭和時代になると城の敷地は駿府公園として整備されるようになり、平成元年には巽櫓が、平成8年には東御門が再建されました。

この東御門の券売所に100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り65城
100番 首里城(沖縄県) [日本100名城めぐり]
琉球で三国が鼎立していた三山時代に、中山王国の城として首里城が築かれました。
尚巴志王が琉球を統一すると、首里城は王城として用いられるようになりました。
その後の首里城の歴史は、破壊と再生の歴史でした。
まず、15世紀中ごろに、尚巴志王の子孫・尚金福王が死去し、それをきっかけとして発生した王位争い、志魯・布里の乱で城が完全に破壊されました。
この乱の後、首里城は再建し、第二尚氏時代が始まります。
やがて日本本土が江戸時代を迎えると、薩摩藩が琉球に侵攻してきます。
首里城を落とされた琉球国は薩摩藩に降伏し、以後日本と明の両方に服属する国家になりました。
17世紀末、18世紀初頭には火災によって城が焼失し、薩摩藩から原木の提供を受けて再建しました。
幕末には日本を訪れたペリーの艦隊が琉球にも立ち寄り、首里城を訪問しています。
日本が日米和親条約を結んだとき、同時に琉球国も琉米修好条約を結びました。
明治維新が起こると、明治政府の琉球処分によって琉球国は沖縄県として日本に組み入れられました。
この時に、首里城も日本に明け渡されることとなりました。
太平洋戦争のときには、沖縄戦の際に日本軍は首里城の地下に壕を掘って総司令部を置きました。
そのため、首里城も戦場となり、ほぼ跡形もなく焼け落ちてしまいました。
やがて敗戦を迎えると、沖縄はアメリカの統治下に入り、首里城の跡地には琉球大学が置かれました。
アメリカ統治下の昭和32年に園比屋武御嶽石門が、その翌年に守礼門が復元されると、少しずつ首里城の復元が始まっていきました。


沖縄が本土復帰した後の平成4年には正殿も復元され、首里城公園として開園されました。

平成12年には、首里城址、園比屋武御嶽石門、玉陵が「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に認定されました。
現在も首里城の復元は続いています。
現在、城内の案内所や北殿の券売所に100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り66城
尚巴志王が琉球を統一すると、首里城は王城として用いられるようになりました。
その後の首里城の歴史は、破壊と再生の歴史でした。
まず、15世紀中ごろに、尚巴志王の子孫・尚金福王が死去し、それをきっかけとして発生した王位争い、志魯・布里の乱で城が完全に破壊されました。
この乱の後、首里城は再建し、第二尚氏時代が始まります。
やがて日本本土が江戸時代を迎えると、薩摩藩が琉球に侵攻してきます。
首里城を落とされた琉球国は薩摩藩に降伏し、以後日本と明の両方に服属する国家になりました。
17世紀末、18世紀初頭には火災によって城が焼失し、薩摩藩から原木の提供を受けて再建しました。
幕末には日本を訪れたペリーの艦隊が琉球にも立ち寄り、首里城を訪問しています。
日本が日米和親条約を結んだとき、同時に琉球国も琉米修好条約を結びました。
明治維新が起こると、明治政府の琉球処分によって琉球国は沖縄県として日本に組み入れられました。
この時に、首里城も日本に明け渡されることとなりました。
太平洋戦争のときには、沖縄戦の際に日本軍は首里城の地下に壕を掘って総司令部を置きました。
そのため、首里城も戦場となり、ほぼ跡形もなく焼け落ちてしまいました。
やがて敗戦を迎えると、沖縄はアメリカの統治下に入り、首里城の跡地には琉球大学が置かれました。
アメリカ統治下の昭和32年に園比屋武御嶽石門が、その翌年に守礼門が復元されると、少しずつ首里城の復元が始まっていきました。


沖縄が本土復帰した後の平成4年には正殿も復元され、首里城公園として開園されました。

平成12年には、首里城址、園比屋武御嶽石門、玉陵が「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に認定されました。
現在も首里城の復元は続いています。
現在、城内の案内所や北殿の券売所に100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り66城
99番 中城城(沖縄県) [日本100名城めぐり]
琉球で三国が鼎立していた三山時代に、中山王国で数世代の先中城按司(さちなかぐずくあじ)によって中城城は築き上げられていきました。
その後、北山王国の討伐に功のあった護佐丸がこの地に封じられると、城の改修にかかりました。
そのため、中城城には下部と上部で石垣の積み方が異なっている部分があります。

しかしその後、勝連城主・阿麻和利の策略で中城城は包囲され、護佐丸は抵抗せずに自害して城を明け渡します。
本土が江戸時代になると、琉球国は薩摩藩の植民地となります。
正殿のあった一の郭には、薩摩藩の番所が築かれました。
そして幕末には、日本に開国を迫ったアメリカのペリーの艦隊が琉球にもやってきました。
そのとき、ペリー艦隊の探検隊は中城城も訪れ、特にアーチ型の門に対して技術水準の高さに驚嘆したという記録が残っています。

アメリカとの地上戦が行われた太平洋戦争のときには、一の郭の番所が焼失してしまいました。

平成12年には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に認定され、多くの観光客が訪れるようになりました。
現在、管理事務所に100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り67城
その後、北山王国の討伐に功のあった護佐丸がこの地に封じられると、城の改修にかかりました。
そのため、中城城には下部と上部で石垣の積み方が異なっている部分があります。

しかしその後、勝連城主・阿麻和利の策略で中城城は包囲され、護佐丸は抵抗せずに自害して城を明け渡します。
本土が江戸時代になると、琉球国は薩摩藩の植民地となります。
正殿のあった一の郭には、薩摩藩の番所が築かれました。
そして幕末には、日本に開国を迫ったアメリカのペリーの艦隊が琉球にもやってきました。
そのとき、ペリー艦隊の探検隊は中城城も訪れ、特にアーチ型の門に対して技術水準の高さに驚嘆したという記録が残っています。

アメリカとの地上戦が行われた太平洋戦争のときには、一の郭の番所が焼失してしまいました。

平成12年には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に認定され、多くの観光客が訪れるようになりました。
現在、管理事務所に100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り67城
98番 今帰仁城(沖縄県) [日本100名城めぐり]
日本の本土が鎌倉時代だった頃、琉球は北山王国、中山王国、南山王国の三国が鼎立する三山時代にありました。
このうち、北山王国の王城として築かれたグスクが今帰仁(なきじん)城です。
琉球は中国の影響を強く受けていたため、築かれている石垣も本土のものとは異なる、曲線を多用したものとなっています。

また、主郭には王の屋敷が築かれていました。

しかし、力を付けてきた中山王国の尚巴志王に今帰仁城は攻略され、北山王国は滅亡します。
その後今帰仁城には北山監守が置かれて、中山王国の統治下に置かれました。
やがて、南山王国も滅ぼされ琉球国は統一されますが、本土が江戸時代になった頃、琉球国は薩摩藩の侵攻を受けます。
そのときに真っ先に標的になったのが今帰仁城で、薩摩軍によって焼き討ちにあいました。
最終的に琉球国は薩摩藩に降伏し、以後日本と中国の両方に服属する国家となりました。
明治維新や太平洋戦争で沖縄は大きく揺れ動きましたが、それらは今帰仁城にはあまり影響はなく、アメリカ統治下の昭和37年に平郎門が修復されました。

平成12年には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に認定され、多くの観光客が訪れるようになりました。
現在、今帰仁グスク交流センターに100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り68城
このうち、北山王国の王城として築かれたグスクが今帰仁(なきじん)城です。
琉球は中国の影響を強く受けていたため、築かれている石垣も本土のものとは異なる、曲線を多用したものとなっています。

また、主郭には王の屋敷が築かれていました。

しかし、力を付けてきた中山王国の尚巴志王に今帰仁城は攻略され、北山王国は滅亡します。
その後今帰仁城には北山監守が置かれて、中山王国の統治下に置かれました。
やがて、南山王国も滅ぼされ琉球国は統一されますが、本土が江戸時代になった頃、琉球国は薩摩藩の侵攻を受けます。
そのときに真っ先に標的になったのが今帰仁城で、薩摩軍によって焼き討ちにあいました。
最終的に琉球国は薩摩藩に降伏し、以後日本と中国の両方に服属する国家となりました。
明治維新や太平洋戦争で沖縄は大きく揺れ動きましたが、それらは今帰仁城にはあまり影響はなく、アメリカ統治下の昭和37年に平郎門が修復されました。

平成12年には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に認定され、多くの観光客が訪れるようになりました。
現在、今帰仁グスク交流センターに100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り68城
87番 名護屋城(佐賀県) [日本100名城めぐり]
平安時代末期から戦国時代の間、肥前国松浦地方では、松浦党と呼ばれる水軍集団が勢力を誇っていました。
この松浦党の最大の力を持っていた波多氏の一族・名護屋氏が、東松浦半島の北端に垣添城という城を築きました。
やがて、豊臣秀吉が天下を統一して桃山時代が到来すると、秀吉は大陸侵攻を目論見ます。
そして、朝鮮半島に出兵するための前線基地として、垣添城を大規模に改修し、名護屋城を築城しました。
この名護屋城には秀吉自ら居城したため、単なる軍事基地ではなく、大坂城並みの絢爛な城が築かれました。
また、動員された諸大名も城の周りに陣を構え、当時は都をも凌ぐ活気にあふれていたといわれています。

朝鮮半島では文禄・慶長と2度にわたる戦役が行われましたが、秀吉が死去すると日本軍は朝鮮から撤兵し、それによって名護屋城も廃城になりました。
やがて徳川家康が天下を取って江戸時代になりますが、江戸時代初期に同じ肥前国で島原の乱が起こりました。
乱の鎮圧後、同様の一揆の立てこもりを防ぐため、幕府はすでに廃城になっていた名護屋城を、天守台も含めて石垣にいたるまで破却させました。

大正時代に、名護屋城と周りの陣跡は国の史跡に指定され、その後石垣の復元作業等が行われるようになりました。

また、平成5年には、かつて秀吉の義理の甥・木下延俊が陣を構えたところに佐賀県立名護屋城博物館が建てられました。
この博物館に100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り69城
この松浦党の最大の力を持っていた波多氏の一族・名護屋氏が、東松浦半島の北端に垣添城という城を築きました。
やがて、豊臣秀吉が天下を統一して桃山時代が到来すると、秀吉は大陸侵攻を目論見ます。
そして、朝鮮半島に出兵するための前線基地として、垣添城を大規模に改修し、名護屋城を築城しました。
この名護屋城には秀吉自ら居城したため、単なる軍事基地ではなく、大坂城並みの絢爛な城が築かれました。
また、動員された諸大名も城の周りに陣を構え、当時は都をも凌ぐ活気にあふれていたといわれています。

朝鮮半島では文禄・慶長と2度にわたる戦役が行われましたが、秀吉が死去すると日本軍は朝鮮から撤兵し、それによって名護屋城も廃城になりました。
やがて徳川家康が天下を取って江戸時代になりますが、江戸時代初期に同じ肥前国で島原の乱が起こりました。
乱の鎮圧後、同様の一揆の立てこもりを防ぐため、幕府はすでに廃城になっていた名護屋城を、天守台も含めて石垣にいたるまで破却させました。

大正時代に、名護屋城と周りの陣跡は国の史跡に指定され、その後石垣の復元作業等が行われるようになりました。

また、平成5年には、かつて秀吉の義理の甥・木下延俊が陣を構えたところに佐賀県立名護屋城博物館が建てられました。
この博物館に100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り69城
40番 山中城(静岡県) [日本100名城めぐり]
戦国時代、北条氏康によって小田原の西を防衛するために箱根山に築かれた城が山中城です。
この丘の上に天守が築かれていました。

氏康の息子・氏政の時代になると、豊臣秀吉による天下統一が目前に迫り、最後まで抵抗するのは後北条氏のみとなりました。
そこで氏政は更なる防備を重ねるために急遽堀等を整備しました。

山中城の堀は障子掘や畝堀と呼ばれる、中に仕切りを設けた堀が特徴で、これによって敵兵が堀の中を自由に動き回れないようになっています。
しかし、増築も間に合わず、豊臣軍の大軍によりわずか半日で落城、そのまま山中城は廃城となってしまいました。
城跡内にある宗閑寺には、この戦いで戦死した北条方、豊臣方双方の武将が葬られています。

昭和48年から山中城跡は公園として整備されだし、学術的な調査も始まりました。
山中城跡の中の売店に100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り70城
この丘の上に天守が築かれていました。

氏康の息子・氏政の時代になると、豊臣秀吉による天下統一が目前に迫り、最後まで抵抗するのは後北条氏のみとなりました。
そこで氏政は更なる防備を重ねるために急遽堀等を整備しました。

山中城の堀は障子掘や畝堀と呼ばれる、中に仕切りを設けた堀が特徴で、これによって敵兵が堀の中を自由に動き回れないようになっています。
しかし、増築も間に合わず、豊臣軍の大軍によりわずか半日で落城、そのまま山中城は廃城となってしまいました。
城跡内にある宗閑寺には、この戦いで戦死した北条方、豊臣方双方の武将が葬られています。

昭和48年から山中城跡は公園として整備されだし、学術的な調査も始まりました。
山中城跡の中の売店に100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り70城
19番 川越城(埼玉県) [日本100名城めぐり]
室町時代、北武蔵で覇権を持っていた扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の上杉持朝は、対立する古河公方・足利成氏に対抗するため、家臣の太田道真・道灌父子に命じて河越城を築城させました。
関東地方は石が少ないので、土塁を中心とした防備の城となり、その周囲には堀も張り巡らされました。

また、実質上の天守である富士見櫓もこの頃、この小高い丘の上に建造されました。

この城は代々扇谷上杉氏の居城でしたが、戦国時代になると関東地方に後北条氏が台頭しだし、幾度にわたる攻城戦の末、北条氏綱が奪取します。
氏綱の息子の氏康の時代に、扇谷上杉氏の上杉朝定は、それまで対立していた山内上杉氏の上杉憲政と和睦し、大軍を率いて河越城の奪還に乗り出します。
しかし、氏康の奇襲によって上杉勢は壊滅、これが日本三大夜戦の一つ、河越夜戦です。
この戦によって扇谷上杉氏は滅亡、山内上杉氏の憲政は越後国(今の新潟県)の長尾景虎を頼って落ち延びます。
やがて景虎は憲政の養子となり、上杉姓を名乗るようになりました。
後の上杉謙信です。
さて、後北条氏の時代、城代は代々大道寺氏が務めますが、桃山時代になると、後北条氏以外のすべての大名が豊臣秀吉に臣従するようになりました。
秀吉の天下取りの最後の仕上げとして小田原征伐が始まると、河越城は前田利家の軍勢によって攻め落とされます。
後北条氏滅亡後は、徳川家康が関東に移封されました。
この頃から、「河越」は「川越」と表記されるようになります。
以後江戸時代を通して、川越城は徳川の譜代、親藩が代々城主を務めます。
幕末には本丸御殿も造営されました。

明治時代になるとこの本丸御殿は武道場や中学校として使用されるようになりましたが、昭和時代に文化財に指定されました。
この本丸御殿の受付窓口に100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り71城
関東地方は石が少ないので、土塁を中心とした防備の城となり、その周囲には堀も張り巡らされました。

また、実質上の天守である富士見櫓もこの頃、この小高い丘の上に建造されました。

この城は代々扇谷上杉氏の居城でしたが、戦国時代になると関東地方に後北条氏が台頭しだし、幾度にわたる攻城戦の末、北条氏綱が奪取します。
氏綱の息子の氏康の時代に、扇谷上杉氏の上杉朝定は、それまで対立していた山内上杉氏の上杉憲政と和睦し、大軍を率いて河越城の奪還に乗り出します。
しかし、氏康の奇襲によって上杉勢は壊滅、これが日本三大夜戦の一つ、河越夜戦です。
この戦によって扇谷上杉氏は滅亡、山内上杉氏の憲政は越後国(今の新潟県)の長尾景虎を頼って落ち延びます。
やがて景虎は憲政の養子となり、上杉姓を名乗るようになりました。
後の上杉謙信です。
さて、後北条氏の時代、城代は代々大道寺氏が務めますが、桃山時代になると、後北条氏以外のすべての大名が豊臣秀吉に臣従するようになりました。
秀吉の天下取りの最後の仕上げとして小田原征伐が始まると、河越城は前田利家の軍勢によって攻め落とされます。
後北条氏滅亡後は、徳川家康が関東に移封されました。
この頃から、「河越」は「川越」と表記されるようになります。
以後江戸時代を通して、川越城は徳川の譜代、親藩が代々城主を務めます。
幕末には本丸御殿も造営されました。

明治時代になるとこの本丸御殿は武道場や中学校として使用されるようになりましたが、昭和時代に文化財に指定されました。
この本丸御殿の受付窓口に100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り71城
49番 小谷城(滋賀県) [日本100名城めぐり]
戦国時代、北近江の戦国大名・浅井亮政が小谷山に築いた山城が小谷城です。
最初の小谷城は小谷山最高峰の大嶽(おおづく)に築かれましたが、あまりに高すぎて不便であるということで、南側の尾根上に本城が移され、本丸もそちらに築かれました。

小谷城は、同じく近江国を拠点とする六角氏との幾度かの戦いの舞台にもなりました。
その戦いの中で六角氏に内応した今井秀信を誅殺して首をさらしたと言われる「首据石」が今でも城内に残っています。

浅井氏は亮政、久政、長政の三代に渡って小谷城とともに繁栄しますが、長政の時代に織田信長の妹・お市の方を嫁に迎え、織田氏との同盟を結びます。
長政と市の間には、茶々、初、江の三姉妹が生まれました。
しかし、信長が同じく浅井氏の同盟相手である朝倉義景を攻めると、長政は朝倉氏との関係の方を重視し、織田氏との同盟を破棄して金ヶ崎で織田軍に攻めかかります。
命からがら脱出に成功した信長は態勢を立て直し、再び近江に進行しました。
姉川にて浅井・朝倉連合軍を打ち破りますが、小谷城は難攻不落であり、ここから長政は小谷城での篭城戦に入ります。
信長は、小谷山正面の虎御前山に陣を敷きます。

信長はまず朝倉氏を滅亡させると、浅井氏の家臣を次々に調略しました。
そして孤立した小谷城本陣は羽柴秀吉の軍によって攻め落とされ、長政はお市の方と三人の娘を託すと自刃して果てました。
落城した小谷城は秀吉が接収しますが、秀吉はすぐに長浜に拠点を移したため、小谷城は廃城になりました。
小谷山麓の、かつて武家屋敷があったところに建てられている小谷城戦国歴史資料館に100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り72城
最初の小谷城は小谷山最高峰の大嶽(おおづく)に築かれましたが、あまりに高すぎて不便であるということで、南側の尾根上に本城が移され、本丸もそちらに築かれました。

小谷城は、同じく近江国を拠点とする六角氏との幾度かの戦いの舞台にもなりました。
その戦いの中で六角氏に内応した今井秀信を誅殺して首をさらしたと言われる「首据石」が今でも城内に残っています。

浅井氏は亮政、久政、長政の三代に渡って小谷城とともに繁栄しますが、長政の時代に織田信長の妹・お市の方を嫁に迎え、織田氏との同盟を結びます。
長政と市の間には、茶々、初、江の三姉妹が生まれました。
しかし、信長が同じく浅井氏の同盟相手である朝倉義景を攻めると、長政は朝倉氏との関係の方を重視し、織田氏との同盟を破棄して金ヶ崎で織田軍に攻めかかります。
命からがら脱出に成功した信長は態勢を立て直し、再び近江に進行しました。
姉川にて浅井・朝倉連合軍を打ち破りますが、小谷城は難攻不落であり、ここから長政は小谷城での篭城戦に入ります。
信長は、小谷山正面の虎御前山に陣を敷きます。

信長はまず朝倉氏を滅亡させると、浅井氏の家臣を次々に調略しました。
そして孤立した小谷城本陣は羽柴秀吉の軍によって攻め落とされ、長政はお市の方と三人の娘を託すと自刃して果てました。
落城した小谷城は秀吉が接収しますが、秀吉はすぐに長浜に拠点を移したため、小谷城は廃城になりました。
小谷山麓の、かつて武家屋敷があったところに建てられている小谷城戦国歴史資料館に100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り72城
50番 彦根城(滋賀県) [日本100名城めぐり]
桃山時代末期、関ヶ原の戦いが徳川家康の勝利に終わると、徳川四天王の一人・井伊直政はそれまで石田三成の領国であった近江国東部を所領として賜ります。
その子・直継の代に彦根山に新城を築くこととなり、彦根城が建てられました。
築城開始から3年後に天守が完成し、直継が入城しました。

4代藩主・直興の時代には大名庭園の玄宮園が整備されました。

幕末の11代藩主・直中には多くの子供が居ました。
その中の一人、14男の直弼は養子の行き口もなく、彦根城近くの邸宅に「埋木舎」と名を付けそこに住まい、武道や学問・芸術に明け暮れるなど世捨て人のような生活を送っていました。

しかし、相次ぐ兄の死によって奇跡的に15代藩主の座に就くと、藩政改革を行い名君と呼ばれるようになりました。
一方その頃江戸では黒船来航による幕政の混乱が起こっていました。
その中で直弼は幕府の大老に就任し、日米修好通商条約の締結などを行いますが、それに反発する尊皇攘夷派の活動は日に日に強まっていきました。
直弼はそれらを取り締まるために安政の大獄を行いますが、やがて水戸浪士らの手によって、江戸城桜田門外にて暗殺されてしまいます。
やがて時代は明治を迎えますが、彦根城は破却を免れ、保護されることになりました。
現在も国宝の城として多くの観光客が訪れています。
表門の券売所に100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り73城
その子・直継の代に彦根山に新城を築くこととなり、彦根城が建てられました。
築城開始から3年後に天守が完成し、直継が入城しました。

4代藩主・直興の時代には大名庭園の玄宮園が整備されました。

幕末の11代藩主・直中には多くの子供が居ました。
その中の一人、14男の直弼は養子の行き口もなく、彦根城近くの邸宅に「埋木舎」と名を付けそこに住まい、武道や学問・芸術に明け暮れるなど世捨て人のような生活を送っていました。

しかし、相次ぐ兄の死によって奇跡的に15代藩主の座に就くと、藩政改革を行い名君と呼ばれるようになりました。
一方その頃江戸では黒船来航による幕政の混乱が起こっていました。
その中で直弼は幕府の大老に就任し、日米修好通商条約の締結などを行いますが、それに反発する尊皇攘夷派の活動は日に日に強まっていきました。
直弼はそれらを取り締まるために安政の大獄を行いますが、やがて水戸浪士らの手によって、江戸城桜田門外にて暗殺されてしまいます。
やがて時代は明治を迎えますが、彦根城は破却を免れ、保護されることになりました。
現在も国宝の城として多くの観光客が訪れています。
表門の券売所に100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り73城
2番 五稜郭(北海道) [日本100名城めぐり]
江戸時代末期、ペリーの黒船が来航し日米和親条約が結ばれると、箱館(現在の函館)が開港されることになり、箱館山麓に奉行所が設置されました。

しかしこの地では海からの艦砲射撃の射程圏内であるということで、奉行所をもう少し内陸に移動し、それを守るために蘭学者・武田斐三郎の設計によって西洋式の星型要塞が建造されました。
それが五稜郭です。

実際に五稜郭が外国勢力から攻撃を受けるようなことはありませんでしたが、折りしも本土では、黒船来航に始まる一連の政情不安の末、薩摩・長州を中心とする新政府軍と幕府軍が衝突するという事態になっていました。
戦いは幕府軍の敗北に終わり、時代は明治を迎えますが、これに納得しない榎本武揚、大鳥圭介、土方歳三などを中心とする旧幕臣勢力が箱館に上陸し、五稜郭を占拠しました。
そして、選挙によって総裁に選ばれた榎本を中心に新政府軍に対して抵抗を続けますが、やがて体制を整えた新政府軍による箱館総攻撃が始まり、土方は一本木関門にて戦死、榎本や大鳥は降伏して五稜郭を明け渡します。
旧幕府勢力が一掃されると、奉行所を始めとする建造物は解体され、大正時代には公園として一般に開放されました。
昭和39年には入り口付近に五稜郭タワーが建造され、星型の縄張りを高所から眺めることができるようになりました。
そして平成22年には箱館奉行所が復元されました。

五稜郭タワーの一階券売所および、奉行所前の売店に100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り74城

しかしこの地では海からの艦砲射撃の射程圏内であるということで、奉行所をもう少し内陸に移動し、それを守るために蘭学者・武田斐三郎の設計によって西洋式の星型要塞が建造されました。
それが五稜郭です。

実際に五稜郭が外国勢力から攻撃を受けるようなことはありませんでしたが、折りしも本土では、黒船来航に始まる一連の政情不安の末、薩摩・長州を中心とする新政府軍と幕府軍が衝突するという事態になっていました。
戦いは幕府軍の敗北に終わり、時代は明治を迎えますが、これに納得しない榎本武揚、大鳥圭介、土方歳三などを中心とする旧幕臣勢力が箱館に上陸し、五稜郭を占拠しました。
そして、選挙によって総裁に選ばれた榎本を中心に新政府軍に対して抵抗を続けますが、やがて体制を整えた新政府軍による箱館総攻撃が始まり、土方は一本木関門にて戦死、榎本や大鳥は降伏して五稜郭を明け渡します。
旧幕府勢力が一掃されると、奉行所を始めとする建造物は解体され、大正時代には公園として一般に開放されました。
昭和39年には入り口付近に五稜郭タワーが建造され、星型の縄張りを高所から眺めることができるようになりました。
そして平成22年には箱館奉行所が復元されました。

五稜郭タワーの一階券売所および、奉行所前の売店に100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り74城
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